小学校までの思い出1

明治36年開業、105年続く
歯医者の一家に生まれた私は4代目
フクロ歯科医院の院長をしています。

1962年9月7日にフクロ歯科の北側にある
野村産婦人科さん(今は千代田町ライオンズマンション)
生まれたときから4.1キロの巨漢でした。(当時の新記録)

12歳と10歳と年の離れた姉が2人の3人兄弟の長男で、
よくかわいがられた?と思います。

姉しかおりませんから
小さいころはガキ大将の陰に隠れているシャイな子供でした。

清心幼稚園というお坊ちゃん、お嬢さん養成?幼稚園に通っていました。

当時クリスマスが近づくとクリスマス会で演じる劇があったのですが、
全員の役のセリフを完璧に覚えていたのに
自分から役をやりたいと言えずに代役ばかり

見かねた先生が、年長さんのときに主役として抜擢してくれました。
幼馴染のゆりちゃんを相手役にした「舌切り雀」

当然おじいさん役(もちろん良いほうのおじいさんです)

いい思い出です!!

 

そしてもうひとつの思い出(こっちは覚えていないのですが)

国旗を選ぶ徒競走で、まだ太っていなかった(小学校で膨張します)
私は国旗のところまでは1番
なのにオレンジとグリーンが大好きだった私は旗を選ぶのに固執して

あえなく惨敗

姉貴から「あの時は惜しかった」といつも言われていました

こっちは悔しい思い出かな?

 

お弁当を温めるボイラー室?があったのをなぜか覚えています。

おふくろが作ってくれるお弁当はこのころは鳥のささみのかつ重が毎日

「この子はこれしか食べないから」と姉貴に語ったとか・・・

このへんの固執する性格は母親ゆずりかな

小学校までの私2

Dr.OWLことフクロ歯科医院の院長 袋 一仁です。

 

当時のガキどもは完全に親分、子分の世界

順列、順序がありました。

フクロ歯科は熊野神社(わたしたちは おくまんさま と読んでました)

の参道にあるのですが、その神社の周りが僕らの遊び場

ガキ大将であるやっちゃんの言うとおりに

次の遊びが決められていきます。

ベーゴマ、魔方陣、木登り、花火

残酷な遊びもかなりやりました。

カエルにクラッカー(爆竹)をしこんで爆発させるとか

(今やったら精神的におかしいと言われるんじゃないかな?)

楽しかったな

毎日やるのはソフトボール(テニスの軟球)を使った野球

おくまんさまの上(その当時は屋根がなく平らだった)に登れるのが

ガキ大将の条件(みんなのボールを取ってくる)

そして右側に大ファールを打つと藤生先生の家のガラスが割れて

(でもあまり怒られなくて・・・当時はその理由がわからなかった)

*藤生先生は私が高校生になって校長先生として前橋高等学校に

再赴任されます。その前にいらしたときは

中日の中監督や8時半の男宮田さんなど前橋高等学校が

野球で有名だったころの野球部の名監督でした。野球をやる少年達を

寛容に見てくださったのだと思います。そのほかの思いでは高校編で・・

あのころ一緒に遊んだメンバー 達 どうしてるかな

ゆうちゃん、すーちゃん、ちゃーくん、かずくん・・・・

 20世紀少年の漫画そのままに僕らは生きていました!!